【高槻史跡】安満遺跡とは?

文化
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高槻市でホットなスポット安満遺跡。

現在は遺跡公園として整備され、オシャレな飲食店や子供の遊び場ボーネルンド、子ども未来館に保健センター等、充実した施設になってきています。

では、安満遺跡はどんな遺跡か、知らない人も多くいると思いますので説明していきたいと思います。

安満遺跡とは

安満遺跡は、高槻市に位置し弥生時代の集落であり、三島地方ではじめて米作りを行った集落です。

公園が出来る以前、安満遺跡は運動場、公園、水田になっていて、保存状態は良いとは言い難く、遺跡の表示解説板がなければ、ただの運動場のある公園であり、遺跡であることが全く感じられない場所でした。

遺跡の保存方法としては、公園とするのも一方法ではあるが、安満遺跡の場合、かつての集落跡がイメージ出来るような形で保存は出来ていないため、関係者からの疑問の声があがっているのが問題でした。

最近の発掘調査は、平成20年11月26日から農場内の発掘調査が開始されました。

この発掘調査は2ヶ年の計画であり、安満遺跡の保存と公開を目的とし、京都大学付属農場内の遺跡状況知るために行われました。

高槻市について

安満遺跡のある高槻市はどのような場所であったか。

高槻市は、古来「三島」とよばれており、約二万年前から近代にかけて多数の遺跡が存在しています。

大阪平野の北東部、淀川北岸の一画を占め、淀川と山陽道(のちの西国街道)という水陸二大交通路の要地に位置し、北が北摂山地、南の淀川に限られた北高南低の地勢にあり、段丘部から平野部にかけてが高槻市です。

 なかでも安満遺跡は、弥生時代に米作りが始まりムラができ、地域のまとまりが進み小さなクニが各地であらわれた時代に、この三島をリードした中心的集落であった。

また、この辺りは湿地帯で、桧尾川の洪水や氾濫に度々起こっていたため、この安満のムラも、一時期、山麓の芝谷遺跡などの高地性の集落へと移った形跡も見つかっています。

しかし、この集落はそういった桧尾川の氾濫の歴史のなかでも、比較的安全な場所でもあったのか、「安心で満足」と言う意味から、この「安満」という地名の由来となっている説もある。

安満遺跡概要

次に、安満遺跡の概要を簡単に解説すると、住居群のまわりに濠をめぐらしており、俗に言う環濠集落跡であって、南側の水田には用水路をそなえられ、東側と西側は墓地になっており、全体では東西1500m、南北600mに及び、当時の土地利用が明らかになっている貴重な遺跡です。

多数の弥生土器などの埋葬物の中には、漆塗りのカンザシやクシ、青銅製のヤジリや木製の農具、勾玉などの装身具などもみつかっている。

遺跡の構造を見てみると、安満遺跡は前期から後期と全期間にわたり長い期間営まれ、しかも居住地、水田、方形周溝墓という、集落を構成する3つの要素、つまり居住域、生産域、墓域があきらかにされている拠点集落です。

これまでの調査により、環濠内部の様子は不明ですが、前中期の土器を含む分厚い遺物包含層が確認され、現在の農場の正門東側では、前期の用水路と丸太枕などが見つかっている。また、居住地の南側に水田が広がっていたと推測されます。

前期・中期・後期

前期の居住地は農場事務所付近にあって、環濠は東西120m×南北140mと推定されます。

中期になると、今の農場事務所付近とJR東海道線付近にも居住域が営まれるようになり、その周囲に墓域が形成され、農場の東側や北西側に、100基以上の方形周溝墓が営まれ、木棺墓も見つかっています。

後期には、東方への居住地移動からか、高垣町付近から竪穴住居跡や井戸などが見つかっている。

弥生時代の研究に大きく貢献

遺跡の発見から史跡指定までは、昭和3年に京都帝国大学農学部附属摂津農場が建設される際に発見されました。

三島で最初の弥生時代遺跡の発掘調査は、同大学考古学教室の島田貞彦らがおこない、出土した土器をA・B・Cの3類に分類している。

昭和7年、弥生土器の編年研究に腐心していた小林行雄は、九州の前期弥生土器である遠賀川式土器が「安満B類」土器に類似すると指摘している。朝鮮半島から稲作文化が九州へ伝わり時をうつさず近畿地方へ伝わったことが明らかになり、弥生時代研究が大きく発展しました。

小林行雄は、日本の考古学者。京都大学名誉教授。文学博士、日本学士院恩賜賞受賞している。

その後、農場周辺は長らく水田地帯として農業が営まれてきたが、昭和41年頃から宅地開発がはじまり、とくに昭和43年、農場北側でおこなわれた宅地造成工事にさきだつ発掘調査では、居住区をめぐると推定される前期の環濠2条が、近畿地方ではじめて発見され、外側の環濠からは未製品を含む多数の木製品が出土。

クワや石斧の柄の農工具、朱漆塗りの櫛・カンザシなどの装身具もみつかり、安満遺跡が弥生文化を知るうえで、きわめて重要な遺跡であることがあらためてしられるようになる。

史跡指定

これがきっかけとなり調査地の保存が図られ、平成5年には農場北側にあたる東西600m×南北100mの範囲、約6.4ヘクタールが国の史跡指定を受けています。

また、平成9年に「青龍3年」の銘がある銅鏡が発見された安満宮山古墳は、安満山にあり、安満遺跡の北方の中腹で、ここ安満に拠点をおいた豪族が被葬されたと考えられている。

安満山は,古来山麓一帯に暮す人たちの聖なる地とされ、この山の中腹は、安満山古墳群とよばれ、出土した3世紀後半の安満宮山古墳をはじめ、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の皇帝から贈られた「銅鏡百枚」の一部とみられる鏡などが4世紀後半から7世紀にかけての古墳も40基余り確認されています。

山麓には安満の鎮守、磐手杜神社が鎮座し、紅茸山遺跡、小曽部・芝谷遺跡などの集落があります。

安満宮山古墳からは,これらの遺跡や淀川を見とおすことができ,三島平野をいちはやく支配し、淀川を利用した古代交通に関わった人物が葬られたと考えられています。

安満宮山古墳の出土品はきわめて重要であり、平成12年6月に国の重要文化財に指定される。

参考資料

高槻市教育委員会文化財課埋蔵文化財調査センター『安満遺跡―平成20年度確認調査速報―』2009年

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